かど七は初代角埜七兵衛(かどのしちべえ)が江戸時代初期(1602年)に敦賀市に家業を興したのが始まりです。
江戸時代初期から敦賀は松前(北海道)と京都・大阪を結ぶ物流の拠点として北前船が発達し日本海側最大の港として大いに栄えました。
角七(かどひち・当時から呼称としてこう呼ばれていました)はその時流に乗り敦賀での豪商の一端を担ったようです。俵物と呼ばれた海産物は昆布や干し鮑やきんこと呼ばれた干海鼠などがありました。商いとしては隆盛で、古文書には元禄16年(1704年)作州(岡山県)津山城築城の際には御用金八千両の内、二百五十両を納入したとあります。また当時の商いの様子の一部は今も現存する天明5年(1789年)の「諸国一統御触書」と題された幅1尺長さ1間の木札にも記されています。長崎奉行は角埜方を長崎俵物方会所と称し、松前や敦賀の浦から集めた海産物を長崎に一手に送るように命じ、鎖国の中にあって唯一の中国への窓口であった長崎から輸出していたようです。
江戸時代末期から北前船が衰退するとそれまでの縁から北前の鰊などを魚粉として肥料などにする肥料商を営むようになりました。昔は鰊などは食用以外に田んぼの肥料としても使用されたのです。この肥料の商いは終戦後まで続きました。陶器を扱うようになったのは昭和22年のことです。
陶磁器は間口が広く奥行きが深い品です。 日常の消耗品として気楽に使われる面と数千年の歴史を持つ美術品の面とがあります。それだけに一朝一夕に確かな目を持つことは難しいものがあります。どの商いでもそうなのですが。ただ陶器は多くの人の手と時間を重ねて作られるだけに手に取る楽しみはつきません。
現在敦賀市市野々に「かど七」として国内外の器やインテリア、そして厨房用品や業務用食器に至るまで幅広く揃え、「確かな目で深く、そして楽しく」をめざしています。
左上の写真は明治35年頃のかど七の店頭風景です


